2013年4月30日火曜日

End Of World but World Never End

大学4年の夏、僕は自転車でアメリカ大陸横断旅行に出かけた。

その始まりのとき、北京で数日過ごした後、
僕は巨大な自転車の入った箱をひいこら抱えてニューヨーク行の便に乗り込んだ。

三列シートの通路側に座った僕。

窓側の二席には、英語を話す白人のバックパッカーがいた。
今思えば、バックパッカーというものを初めて見た瞬間だったかもしれない。
彼らは、二人でトランプゲームに興じ、
機内食の時間になると青島ビールを何度もお代わりしていて、
CAに“これで最後ですよ”なんて言われていた。

一方の僕はというと、出発前に描いていたこれから始まる冒険譚への期待よりも
もう後戻りできないという不安のほうが勝り、緊張で食事も喉を通らなかった。

その時は3冊の文庫本を持っていった。
椎名誠と寺山修司、それとたしかエルネスト・ゲバラだったと思う。
その3冊中の椎名氏の著書は“パタゴニア”というタイトルだった。
副題に“あるいは風とタンポポの物語”と付けられた本は
緊張の機内の中で、内容なんてまるで頭に入っていないのに
不安を紛らわす一心で飛行機の中で読みきってしまった。

そうしてニューヨークに降り立ち始まったアメリカ横断の旅は
毎日毎日散々な目に遭いつつも、僕の記憶に鮮烈に残る旅となった。

2ヶ月近くかけて終点のサンタモニカにあるアーチをくぐった時
なんとも言えない感覚に包まれた。
桟橋の向こうには太平洋が広がっている。
道はここで途切れているのに、やっと横断が完了したのに
僕は終わったという実感がつかめぬまま、なんとも言えない虚無感が残った。

あれから6年と半年。

あの時読んだ本のタイトルに何かの因果関係があったかは分からないが、
桟橋で途切れた道は場所と時間を超えて、パタゴニアへと続いていった。

そこは正しく風の大地で、毎日風と戯れ、風にもがき続けた。
南緯40°のラインを越えたあたりでは、
タンポポが短きプリマヴェーラ(春)を謳歌していたが
ここにきて綿毛になったタンポポもちらほらと見える。
もうすぐこの地の夏の終わりも近いのかもしれない。

今朝、夜が明けたばかりのウシュアイアをパスして
その先のラパタイアに着いた。

“Aqui finaliza la Ruta Nac.N3”(国道3号線の終点)
と書かれた立て看板を見て安堵こそ感じたものの、
大陸分水嶺を越えてカナダのアルバータ州に入った時、
鬱蒼とした熱帯雨林の隙間から覗いたパナマ運河、
あるいは天空世界まで続くかのようなアンデスの山嶺をいくつも越え、
眼下に飛び込んできたクスコの赤茶けた街…
そんな強烈な手応えは感じることができなかった。

世界の果てにやってきた達成感よりも
この大陸が終わってしまう叙情感のほうが強いのかもしれない。

ここにきても、やはりこみ上げる感情はあの日と同じだった。

ただ、あの時と違って、この気持ちの正体が何なのか、
少しは分かりかけている気もする。

ウシュアイアで見かけた看板によると、ここから東京までは約17000kmだそうだ。
地球の円周が約40000kmなのでほとんど反対側。
まさに最果ての街の通り名どおりだ。

でもカナダから出発した僕の走行距離はもう25000kmに届こうとしている。
平面で見る地球よりも、実際の地球はとても歪で曲がりくねっているのだ。

そんな地球の凹凸を身をもって体感しているからこそ、
ここはまだまだ通過点なんだと体が知っている。
まだまだ知らない世界がこの地球にはたくさんある。

シチュエーションにこだわれば、地球はまだまだ遊べる星だ。

ここは世界の果てかもしれないけれど、僕にとっての世界はまだまだ終わらない。
次の大陸にも新たな出逢いや、自然、食べ物…たくさんの出来事に期待にしている。

道はここで途切れるかもしれないけれど、
この地球を走ってきた感覚が
まだまだ終わらないよと僕に訴えかけているのだ。
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total days 595days (22/6/11~6/2/13)

total distance 24,666km
flat tires 27times
visited countries 15
highest altitude 6088m

 

2013年4月29日月曜日

言霊に導かれし最果ての地

南米最後のキャンプから一夜明け、僕はゆっくり長く下る坂道を下っていた。
その先の森の隙間に大きな広がりを捉えた。

海だ。

森の隙間から覗いたものは海だった。
ビーグル水道と呼ばれるフエゴ島とナバリノ島を隔てる海峡が見えたのだ。

そして海の見えるカーブの先にさらに大きな驚きが突然やってきた。
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この1年8ヶ月、目指しつづけたウシュアイアの文字をかたどったゲートが待ち構えていた。

ウシュアイア。

どれほどこの言葉に思い焦がれてきたことだろうか。
思えばカナダを出た当初、ウシュアイアに行くんだなんて言っても、キョトンとした顔を浮かべる人がほとんどだったし、言っている自分だって半信半疑だった気がする。
でも何度も何度も言葉にすることで、いつしか言葉に力が宿り、
それが言霊となって僕をここまで導いてくれた。

夢にまで描いた場所までいよいよ僕はやってきたのだ。

ウシュアイアとの思いがけない出会いには、呆気に取られたが、
ゲートの前にしばし立っていると沸々とこの地にやってきた感慨が湧き出しやがて溢れそうになった。

こぼれそうになった涙をギリギリで抑えこみ自分に言い聞かす。
まだだ、まだ。本当の道の終わりはもう少し先だ。
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ゲートをくぐり市内に入ると、突然都会的な景観が広がった。
ほんのつい5分前までとは別世界。
そこは最果てとは程遠い空気のごく普通の街並みに見えた。

時刻は7時過ぎ。
まだ眠りから明けて間もない街をパスし、僕は国道の終わりラパタイアへと走り出した。

前日に降った雨が地面を濡らし、そこに朝日がまばゆい光を落とす。
照り返された地面は激しく輝き、光の道を作り出した。
この光の道の先が世界の果てだ。
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さぁ、ラパタイアへ。

2013年4月28日日曜日

魂はいずこに

トルウィンからウシュアイアまではいよいよ100kmほど。
いよいよ今日1日で到着できてしまうところまでやってきた。

トルウィンの手前辺りからただただ地平線が広がる退屈な景色が、
突如としてキリリとした山々が連なる山脈に変わり、周りを南極ブナの森が覆い、
川の流れる先には大きな湖があった。

ここにきて景色が劇的に変化し、南米のフィナーレを演出しようとしている。
お世話になったパン屋に礼を言って出発。

森と山に阻まれた地形のせいか、ここから西向きに進む道のりなのに全く風は感じなかった。
だから一漕ぎ一漕ぎと近づく南米の終焉をどう迎えるべきか、考える時間が多くなった。
パン屋の優しさを胸に一気にゴール!もいいのだけれど、何かもっといい終わりの迎え方がないだろうか。
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ぼんやり考え事をしても景色はどんどんと流れ、
やがてエスコンディド湖を抜け、最後のアンデス越えガリバルディ峠に差し掛かった。
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そこそこ傾斜はあるけれど、わずか500m程度の峠道。
幾度と無く越えてきたアンデスの山々を思えば朝飯前だった。

そうして峠を越え下りを下りきる。
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その先はゆるゆるとしたアップダウンがあるものの、少しづつウシュアイアへ近づく。
30km…25km…20km…
ロードサイドのKmポストから逆算される距離は確実にウシュアイアを引き寄せる。
どうしよう、このままでは南米が、
南米が終わってしまう。

残り15kmほどとなったところで、僕はブレーキをかけ、ペットボトルの水を飲み干ししばし考えた。

やっぱり、今日ゴールはできない。
最後は森の中でキャンプして明日ゴールしようと思った。

もはや記憶が曖昧なのだが

どこかの大学の研究員グループがアンデスかアマゾンかどこか南米の先住民族を現地ガイドとして雇い、
何日もかけて彼らのルーツを探る旅に出かけた。
スケジュールも順調にこなしていたある日、先住民たちは突然その場に座りこんでしまった。
報酬をあげるといっても、彼らは頑なに動こうとせず、そしてこう言った。
“我々は早く来すぎた。おかげで魂を置いてきてしまったのだ。”と。

たしかこんな話だったと思う。

いまウシュアイアを目の前にした僕もまさにそんな気持ちで、
このまま勢いでゴールしてもきっと心から納得出来ない様な気がした。

今日は森の中でキャンプをして、じっとこれまでの旅を振り返ろう。
そうして僕の魂がここに追いつくのを待とう。

そう思って、そのまま近くの森の中へと自転車を運び入れた。

グレー色の空模様は夕方になると雨を運んできた。
フカフカの腐葉土の上に張ったテントに雨粒が落ちる。
遠くで何かの鳥が鳴く声がする。
それらの音を耳にしながら、じっとこれまでの旅を思いかえし、魂が追いつくのをひた待った。
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2013年4月26日金曜日

世界の果ての世界一のパン屋

パタゴニアに入って一番の爆風から一夜明けて、
何とか嵐は峠を越えた模様だ。

今日は月曜日。
風切り音だけが轟くゴーストタウンのような昨日とはうってかわって
街は朝から忙しさを取り戻していた。

そんなリオグランデの街を横目に再び荒野へ。

初めこそ、街を出るのに向かい風で手こずったが
1時間もしないうちに、追い風に乗った。

5時間ちょっとの走行で110km先のトルウィンの村に着いた。

まだ走れる時間だったけど、ここにはちょっとした名物がある。
それは自転車乗りを泊めてくれるパン屋があるのだ。

このパン屋自転車乗りにもそうだが、
地元では大変な有名店で、実際にここに来るまでもいくつか看板を見かけた。

村に入ってすぐにそのパン屋へと向かった。

すると表にいたおじさんが『ようこそトルウインのパン屋、ラ・ウニオンへ』と言って
直ぐ様、お店の離れにある作業場の一角の部屋に僕を通してくれた。

部屋の壁にはたくさんのサイクリストのメッセージ。

多くのサイクリストを受け入れてきたからか、おじさんの案内も手慣れたものだ。
自転車はここで、トイレはこっちな、それと…とこんな具合に。

何となく一抹の寂しさを感じながらその案内を聞いていた。

大陸の末端まで来ると、通るルートは次第に限られやがて一本道になる。
フエゴ島に入った今、まさに僕は最後の一本道に乗ってウシュアイアを目指しているのだ。
ただそうなると、ほとんど教科書通りの決まった走りしか出来なくなってくるつまらなさもある。
あそこのエスタンシアで水を貰えて、この国境には泊まれて…などなど。

このパン屋もまさにそうだろう。
おじさんの慣れた案内を見ていて、たくさんのサイクリストを受け入れるにつれて、
お互いが互いに暗黙の了解の下、利用し利用しあっているんじゃないかと思った。
僕は、ここにある親切を当たり前のように貪っているんじゃないかと感じたのだ。

荷物を部屋に運び込み、街を少し散策し、部屋に戻ろうとすると
工場にいたおばさんが

『疲れたでしょう?エンパナーダ食べる?』

とその場で揚げたてのエンパナーダを僕に振舞ってくれた。

『そうそうコーヒーも飲むでしょ?待っててね』と仕事もそこそこに、コーヒーまで用意してくれた。
どちらも熱々のうちに有難く頂く。

おばさんは熟練の手つきでエンパナーダの具をこね、皮に包みながら僕と立ち話。
『日本ではふだん何食べるの?』とか『昨日はローラースケートの人が来たのよ』とか。

僕の方からも「このお店はいつからあるの?」
「昨日、リオ・グランデで一輪車の人にあったよ」なんて話すと
おばさんは『そうそう、来たわ!一輪車の女の子。私、一緒に写真取ったのよ』と興奮気味に、
その女の子が来た時の様子を話しだした。

いつもの多愛もない世間話だ。
けれど、こうして片言ながらちょっとした世間話まで出来るようになった
この瞬間を急に愛おしく感じた。

もうすぐ南米も終わる。

違う大陸に行けば、また再び言葉もイチから勉強しなおしだ。
英語でさえままならない僕が言うのも何だが、出来るだけその国の言葉でその国の人と話したい。
そりゃあ日本食も大好きだけど、その国の大衆食を食べて、それを自分のガソリンにしたい。
自転車を選んだ理由だって、バックパック旅よりもその国を知れるんじゃないかと思ったから。

おばさんは、『コーヒーおかわりしたかったら、これでお湯を沸かして自由に飲みなさい』と勧めてくれた。

そこには、心から僕ら自転車乗りを迎え入れてくれている優しい眼差しがあった。

ハッとする思いだった。
さっきまでの冷めた思いで、ここを訪ねた自分が恥ずかしい。

おばさんは、せっせとエンパナーダを作りながら再び僕との世間話を始める。
僕はエンパナーダから溢れる肉汁を上手に啜りながら、うんうん、そうだねーと頷く。

僕が話そうとすれば、僕の拙いスペイン語を聞き取るために、おばさんはラジカセのボリュームを下げて一生懸命に聞き取ってくれた。

たまらなく良い時を過ごすことが出来た。

ここには本物のホスピタリティがある。
壁に書かれたたくさんのメッセージがそれを物語っている。
本物はどんなにたくさんのサイクリストが訪ねようともブレずに本物なのだ。

そういえば村の入り口にある看板にはこんな文句が書いてあった。

“Buenbenidos Corazon De La Isla”(フエゴ島の心にようこそ)

トルウインには世界一素敵なパン屋があります。
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2013年4月24日水曜日

パタゴニアのペダリアンド

ペンギン村を後にした僕は、パタゴニア名物、政府公認の“泊まれる”イミグレーションを通過し、
アルゼンチンに入国。
一気に150km走りフエゴ島最大の街リオグランデについた。
引き続き風向きも良好。アスファルトも復活したのでさほど労することがなかった。
観光の中心はウシュアイアだが、フエゴ島の暮らしの中心はこちらリオグランデ。
カルフールや、パタゴニアチェーンのLAスーパーが街のメインストリートに君臨しそれらを中心に
商業施設が連なっている。
フエゴ島の素の暮らしを見たければ、こっちを尋ねるのも良いのかもしれない。
ただ、観光地ではないだけあって、安宿がなかった。
街唯一のホステルもなぜかセラド(閉店)の看板が出ていたので、他を当たるもどこも軒並み4000円近い。
途方に暮れ止むをえず、今日もキャンプかとスーパーで食材を買い出ししていると
最初に訪ねた安宿の関係者に声をかけられた。

「泊まるとこ探してるの?うちに来る??」
『えっだけど、セラドって書いてあったよ』
「いや、営業してるんだ」

なんでやねーん!
でも助かった。

そうしてオスタル・アルヘンティーノに転がり込むと、他にも数名のツーリストがいた。
僕の場合たまたま、おっちゃんに会えたから入れたけどみんないったいどうやって泊まれたのだろう。
安宿にかからわず内装も綺麗で空調完備。かなり良さげな宿だった。

一泊してすぐ出るつもりだったが、翌日はついにこれまでで最強のとんでもない風が吹いた。
もはや半端な台風すら凌駕するレベルで
外は建物が風に叩かれる音と、凄まじい風切り音が荒れ狂っていた。
試しに外に出てみると前傾姿勢で全力で進まないと前進しない。
逆方向に進んでみると一歩がいつもの倍以上進んだ。
街なかでこんな風なのだから、荒野に出ようものなら自殺行為。
ましてや街を出るのには20kmほど西に進まなければならないのだから。

そんなわけでウシュアイアまで200km強まできたが今日はお休み。
宿のリビングでのんびりと過ごすことにした。

昨日の宿泊客はほとんどが出てしまった。
いくら風が強いとはいえ、バスならそれほど影響も少ないだろうし、
ましてや何もないここで過ごすのに2日は長すぎる。

それでももう一人の女性は今日もここに滞在するようだった。
彼女も同じくリビングで退屈な時間を過ごしていた。



…ん?



…なぜか視線を感じるぞ。

…また、目があったぞ。



…なんだよ、なんか話したいのかよ。

…困ったな、僕の英語力じゃ大して深い話はできないぞ。

視線を感じながらの沈黙に耐え切れずとりあえず彼女にどこから来たのかたずねてみた。

『どこから来たの?』
「ウシュアイアからよ。でも住んでいるのはカナダ」
『へぇ、僕もカナダのバンクーバーから旅行を始めたんだ』
「バンクーバーに私は住んでるのよ。あなた自転車よね?私もユニサイクルで旅行してるのよ」

へぇ、ユニサイクルねぇ。なんだっけユニサイクルって自転車の名前?
しかしユニサイクルってあれだな、エクアドルであったチャオさんもユニサイクルだったよな。
ってアレ?ユニサイクルって一輪車だっけ…?

えぇぇー!!!!

なんと彼女は一輪車の旅人であった。
ウシュアイアからサンティアゴまで北上していくコースで半年かけてこのエリアを走るそう。

自転車で世界を回ろうとしている僕も、どちらかといえば頭のネジが一本くらい外れているとは思うのだが
失礼を承知で言えば彼女なんて10本くらいネジが外れているのではないか。
しかも風向きの関係でより難易度の高い北上ルートで。だ。

いろいろ色々わけが分からなかった。
荷物はどうしてるの?
水はどのくらい運んでるの?
一日に何Kmぐらい走るの?
などと、普段、僕がバックパッカーの人たちからされる質問を同じように彼女に問いかけていた。

もともとフランス人彼女はフランスにいた頃から一輪車旅をいていたそうでクロアチアまで走ったり
(その時はグループでサポートもあったそう)
ここに来る前もトレーニングでカナダを走ってきたそうだ。
完全な単独セルフ行は今回が初と言っていたが、
それでいてこのパタゴニアをチョイスするなんてのが驚きだ。

ウシュアイアからここまでこれただけでも十分、称賛に値する大記録だけれど、
この先のチリ側ダートはどうするんだろう?
しかも僕も相当苦労したカレテラアウストラルへ行くって言ってるし。

彼女がゆくコースの厳しさを知っているからこそ、余計に呆気に取られてしまう。
開いた口がふさがらないとはこのことをいうのかもしれない。

そんな愕然とした頭で絞り出した質問がこれまたチープなこと。
『どうして一輪車なの?』
「だって一輪車だったらよりチャレンジングじゃない」
そう答えた。
開いた口はさらに広がり、顎が外れかけた。

外は相変わらず暴風が吹きすさむ、日曜の午後。

※彼女のWEBサイトから拝借。
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2013年4月22日月曜日

フエゴ島の秘密の園

チリ側フエゴ島の国境近く。
ただでさえ、交通機関が限られたこのエリアの幹線から外れること約15㎞に秘密の花園がある。
知る人ぞ知るペンギンの園。
原生のペンギン種ではコウテイペンギンに次いで、体長の大きなキングペンギンのコロニーがそこにあった。
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コロニーといっても何千というマゼランペンギンが生息するプンタアレナス近くのマガジャネス島に比べれば、こちらのコロニーはせいぜい50~60匹程度。
それでもこの地域では希少な(もともとこの地域には生息しないとされる)キングペンギンを間近で見られるこのコロニーは、自転車でここまで走ってきたご褒美の一つといってもいい。
短い足をヨタヨタとさせ歩く姿は、そんじょそこらのマスコットとは比べ物にならないほど可愛い。

ちなみにキングペンギンとは、もともと19世紀まで世界最大種ということでこの名前がつけられたが
その後、南極でさらに大きなペンギンが見つかったことからそっちはコウテイペンギンと名付けられたとか。
もし、さらに大きな種が見つかったらいったいどうするつもりなのだろうと、勝手に心配してしまいそうな程
安直なネーミングである。といっても個人的には嫌いではないけれど。

と書いていて調べたら、一応絶滅種でさらに大きなジャイアントペンギンというのがいるらしい。
ますます安直になってるような…
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常に集団行動の彼ら、顔の向く方向まで一緒なのが可笑しい。
のんきな見た目とは裏腹に、割と臆病で僕が興奮のあまり近づきすぎてしまうと
手足をバタつかせて逃げる。
集団で慌てて逃げるもんだから、一匹がドテッとコケる。
そうするとドミノのように近くの数匹も巻き添えでコケる。
驚かせてしまってペンギンたちには申し訳ないのだが、その姿がまたこの上なく可愛い。
正直、ペンギンにここまで興奮するとは自分でも思っても見なかった。

起き上がったペンギンたちは大集団に戻ろうと再び出すのだが、これまたそれぞれで勝手に歩き出すので手足がぶつかってしまう。
案外長い手を左右に振ると、近くの仲間のペンギンにぶつかる。
ぶつかったペンギンもお構いなしに集団に戻ろうと手を振って歩く。
それがまた別なペンギンの頭を叩く。
『ナニスンネン、ナンヤネン、オマエコソナンヤネン!!』
そんな声すら聞こえてきそうな、コテコテのコントのよう。
まったく統率があるんだか、ないんだか…。
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草むらの方にいくともう一つの集団がいた。
よく見ると卵を温めている。
さすがにこちらは驚かせては、まずいのでそっと近寄って見学した。
卵の上に、親鳥の腹回りの脂肪をかぶせて温めていた。
そして周りを他のペンギンたちが囲っている。

カラファテで旅行者から聞いた話によると、この周りにいるペンギンたちも風除けとして立っているそうだ。
そしてずっと外はさすがのペンギンたちも寒いので、上手くローテーションして外に立つペンギンを交代しているとか。
やっぱり統率力あるのか…?

平和の象徴は鳩だと言われるが、個人的にはペンギンを推奨したい。
ぷくっとしたフォルムに、つぶらな瞳。
それでいてしゅっとしたクチバシ。
これに例のヨタヨタした動きと、ナンデヤネンのツッコミが入るのだから
愛さずにはいられない存在だ。
こいつを見て、心が和まない人なんていないのではないかと本気で思ってしまう。

思った以上に大満足のキングペンギン。
ここにはアラレも千兵衛もましてやスッパマンもいなかったけれど、まぎれもなくペンギン村でした。
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2013年4月21日日曜日

背中の意味

さぁ、いよいよ最終ステージティエラ・デル・フエゴへ。
朝、アレナスの免税特区ソナフランカの外れにあるフェリーポートに移動し、フェリーのチケットを買う。
日に一本という少ない運航スケジュールを差し置いても、
ターミナルには溢れんばかりの人たちが船待ちをしていた。

チリ領とアルゼンチン領で割譲されるフエゴ島。
西側のチリ領にはアレナスからのフェリーの寄港地であるポルベニール以外、街らしい街はない。
にも関わらずのこの人の多さ。
みなアルゼンチン側へと向かうのだろうか?

予定時刻を15分ほど過ぎてフェリーは出港。
3時間ほどの船旅、乗船が最後の方だった僕にいい席は残っておらず、通路を向いた席に座る。
天候の行方がイマイチで、風もそこそこ出ていたため波が立っていた。
内海にも関わらず、巨大なフェリーがかなり揺れる。
フェリーはもちろん、乗り物にとことん弱い僕は、目をつむってひたすら耐えるのみ。。。
しばらくすると、乗客の多くが甲板に出て行ったので、おそらくフエゴ島が見えたのは察しが着いたが
僕は全くもってそれどころではなかった。

船酔いにへろへろになりながら、下船。
まったく、最果ての地にやってきたロマンも感慨にも浸るどころではなかったもんだ。

相変わらず天気は思わしくない。
一応ポルベニールにもいくつか宿はあるようで、もし天気が崩れたらここに泊まることも考えていたが
せっかくこの地にやってきた勢いをここで途切らせるのは勿体無いと、出発することに。

街の郊外に出ると今再びのダート。
そして早くも雨が降ってきた。
けれど、西からの強い強い風が濡れた服をすぐに乾かしてくれた。

初めの40㎞ほどは何度もアップダウンを繰り返すきつい道だった。
海外線を行く道を走り終え徐々に内陸に入っていくに従い、道の起伏はなくなっていった。
風は常に西から吹いている。
アレナスへの道のとき以上に強い風に運ばれて、ガタガタのダートにも関わらず時速40㎞近く出ていた。
背中を押される、とはこのことだ。

ある自転車乗りが言っていた言葉があった。
あまりの風に恐怖心を抱いたら、風に背を向けて休憩し深呼吸をすれば落ち着きを取り戻せる。
背中はきっとそのためにある。と。

パタゴニアの風はまさしく背中で受け止めるに値する風だった。
正面で受け止めると、よろよろとどこかへ吹き飛ばされてしまいそうな風も
背中を向けると不思議と立っていられた。

道の進行上、向かい風の中を走るような場面でも、一度立ち止まり風に背を向けて深呼吸をすると
また風に立ち向かう勇気が湧いてくる。

そんなとき、僕もしみじみ思うのだ。
背中はきっとそのためにあるのだな、と。

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2013年4月19日金曜日

fin del mundo para mi

プエルト・ナタレスからは、進路を東に取りながら徐々に南下をする。
この時期、西からの強風がほとんどのため、この先プンタアレナスまでは絶好の追い風コース。
雨を運んできたり、向かい風に苦しめられたりしてきたパタゴニアの風をいよいよ味方にする。
加えて起伏らしい起伏も皆無。
追い風×アスファルト×フラット×ここまで走ってきた走力の破壊力は、これ如何に?

力まず、くるくるとペダルを回しているだけなのに30㎞以上で自転車は進む。
進行方向と風向とがばっちりと重なり合っているから、風の音もほとんど聞こえない。
まさに風になった、気分。

辺りに生える背の低い草が自転車と同じ方向に、ちらちらと揺れていることだけが風を感じさせる。
パタゴニアの風、貴方を味方にするとこうも心強いものなのか。

ただし、立ち止まると途端に、風は牙をむき出しにして襲い掛かってくる。
強い追い風、といってもさすがに240㎞先のプンタアレナスはまでは1日で到着できる距離ではないので
どこかで一夜を過ごさなければならなかったが、
この長い区間、日本で言うと東京~浜松くらいまでの間で風をしのげせそうな場所は数えることの出来るくらいしかない。
道中、誰が利用するのか分からないバス停は、数㎞置きに点在していたが、
ナタレス以降のバス停は横になれないほど狭く、窓も風の影響か割れていることもしばしばだった。

140㎞地点の村にちょうど無料のキャンプ場があり、そこで一晩過ごした翌日、
一走りしてプンタアレナスに着いた。
(100㎞近い距離を一走りとは言わないと思うが、この風の中ではまさに一走りに近い感覚だった)

プンタアレナスは南米大陸最後の都市。
人口10万を抱え、チリ中部と何ら変わらないほどモノにあふれたこの地域は
とても世界の果てに近い場所とは思えない。
ここにあるのは太平洋と大西洋を繋ぐマゼラン海峡。
パナマ運河開通以前は世界一周の最短航路の港町として栄えた場所だ。
そしてこの場所をもってコロンビアのカルタヘナから始まった南米“大陸”縦断が完了した。

“大陸”とくくったのは、この向こう側にあるウシュアイアが南米最南端を謳っているから。
あちらはこの先マゼラン海峡を渡ったフエゴ島に位置していて正確には大陸ではない。
さらに言うと、ウシュアイアの更に南、ビーグル水道を渡った先のチリ領ナバリノ島にも
プエルトウィリアムスという村が存在していて、どこもかしこも“世界最南端”を決まり文句にしている。
それぞれ、“南米大陸としては”とか“銀行、病院などが揃う都市という定義としては”、“人が住む集落としては”などの前置きがつく。
ひねくれた言い方をすれば、このあたりは世界最南端のバーゲンセールなのだ。
いろんな見方やものさしで世界最南端が変わってくる。

だから自分で南米の終わりの落とし所を見つけなくてはいけない。
地理的な視点で見てみると、より南に位置するプエルトウィリアムス。
調べるとウシュアイアから自転車を積んで向こうに渡るにはなかなか難しいらしい。
プンタアレナスからは2週に1度のクルーズ船が出ているようで、こちらは交渉次第で自転車も
持っていけそうだったが、ナバリノ島を走ることは叶わず港に直行らしい。
そうなると、南米自転車走行はここプンタアレナスで終了になってしまう。
それはなんだかなぁ。

僕の旅は決して冒険ではなく、自転車旅行であって“道”を拠り所として人の住む場所を通ってきた。
だから、やはり僕の南米の終着点は自転車で行ける道の終わりがよかった。
そう考えると、プエルトウィリアムスでもなく、プンタアレナスでもなく
ウシュアイアの先にある国道3号線の終わりラパタイアと呼ばれる場所が相応しいと思った。

色んな定義があるけれど僕にとってのFin Del Mundo(世界の果て)はラパタイアなのだ。
いざフエゴ島へ。

いよいよ南米が終わる。
いや終わってしまうのだ。
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2013年4月17日水曜日

【近況報告】今後のルートと現在地

いつも当ブログをご覧いただきまして、ありがとうございます。

ブログ本編では パタゴニア編も佳境を迎え、いよいよ世界の果てへ、というところですが
ご存知のようにこのブログと旅の現在地とでは大きな時間の隔たりが出来てしまっています。

この先の話を期待されている方には、先に話のオチが見えてしまうようで申し訳ありませんが
現在はモロッコ、スペイン、ポルトガルと走り、ユーラシア最西端ロカ岬までたどり着いています。



ここから北欧・アフリカ・ユーラシアと走り日本を目指すと息巻いておりましたが
クレジットカードが相次いでスキミング被害に遭ってしまい、カードが全滅。
にっちもさっちも行かなくなってしまいました。

カードの再発行手続きを行うにあたって、一度日本に帰国することにしました。

幸いにも、スペインには学生時代の友人が住んでおり、
そこに自転車を預かってもらい日本で仕切り直しの準備をしたいと思います。

すでにスペイン発のチケットも購入し、4月29日に成田に帰着予定です。
気持ちが萎まないようにと 復路も購入済み。
6月5日に再びスペインに戻ります。

 このブログも仕切り直しと行けるように、帰国中になるだけ、
現在地に追いつけるよう更新に励む次第であります。

旅の行方もちょうど半分くらい。
日本で気持ちの充電をして、再出発をしたいと思います。

案外楽しみな一時帰国。
2年ぶりの日本は、どんな風にうつるのかな。




2013年4月15日月曜日

パイネハイランドパーク

パタゴニア・チレアンサイドの目玉トーレスデルパイネ国立公園へ行ってきた。

風光明媚な観光地として名高いこの地の開発が進んでいることは、
先の情報で少しは頭に入れていたのだが、実際はその想像を遥かに上回る、
演出された自然がそこには用意されていた。
それはまるでパタゴニアという稀代の大自然を舞台にした一大テーマパークのようだ。
 
それでも、シチュエーションにこだわれば、きっと楽しめるはず。
そう思って各キャンプサイトにそれぞれ荷物をデポして向かうのが一般的なWコースを、
全コース、キャンプ道具一式担いでえっちらおっちらと歩いた。
 
途中、一昨年に起きた(ハイカーが起こした)山火事の影響のためか、
二日目に予定していたキャンプ場が二ヶ所、閉鎖されていた。
仕方なく8km先にある有料キャンプ場へ向かう。
結局この日はトータル30km以上をフルパッキングで歩くはめになってしまった。
さすがに息も絶え絶えで着いたキャンプ場だったが、そこで僕は愕然とした。

山小屋併設の売店には、割高ながらも必要なものは全て揃い、
シャワーだって熱々のホットシャワーが出て、それを求めて人が行列をなしている。
果てには、キッチン専用棟があり、シンクやガスコンロが完備されていた。
『いったい、ここはどこなんだ…』
ここは下手なキャンプ場なんかよりもずっとずっと整備されていた。
整備が行き届き過ぎているといった方が正しいくらいだ。

このキャンプ上のルールに従い、防風防雨、必要な物はすべて用意されているキッチン棟で
晩御飯を準備していると、強烈な違和感と寂しさに襲われた。
全面ガラス張りの窓の向こうには、今日ずっと横目にして眺めてきたパイネグランデ山が見える。
けれど、ここで感じるものはそれだけだ。
冷涼な空気も、風切音も、森の微かな優しい香りもそこにはなく、淡々と目に写るだけ。
風防を使う必要のない完璧に風が遮られた室内でストーブに火をつける。
いつもならシュー…ボボボボボ~という燃焼音とともに力強い火柱があがるのだが、
ここでは周囲の談笑に燃焼音はかき消され、ただ炎だけがあがった。
 
キャンプにおいて、ストーブはただの調理道具以上の存在だと思う。
風の強い場所できちんと点火したときの安堵、
調理中の熱がテントに流れて室内を暖かくし、
荒野に力強く響く燃焼音と青の火柱は頼れる無二の存在だ。
ストーブをつけている最中は、僕は無敵になったような、そんな気分にすらさせてくれる相棒なのだ。

自転車でもバックパッキングでも或いはカヤックでもいい。
人力で移動するということは、運ぶ荷物を見極めることだと思う。
そうして選んだ荷物の重さが足や肩、腕にずしりとのし掛かる。
自由の重さを知るとともに、生きるために必要なものなんて、
人力で運べる程度のものしかないんだということに驚く。
そうやって何日か文明からちょっとだけ離れた暮らしをしていると、
自分にとって1日に必要な水の量が分かる。
そして飲水があるってことは貴重なことなのだ。
水だけじゃない。
乾いていること、火の暖かさ、温かい食事を食べれること…
現代生活で忘れ去られてしまった、様々な有り難みに今さらながらに気付く。

キッチン棟で1人料理していると色々な感情が込み上げてきて、涙が流れそうになった。
出来上がったシンプルなトマトパスタを持って、自分のテントに慌てて戻って、
狭い1畳程度の自分の空間で食べるといくらか落ち着いた。
こんなことで悲しくなっている僕はどう考えてもマイノリティなのだと思う。
あの場所にいた大半の人は楽しそうだ。
でも彼らだって、手付かずの自然を求めに来ているのに、
僕たちが遥か昔に捨て去った自然との共生を求めてやってきているのに、
どうして相反する現代の日常を持ち込むんだろう?
いつしか、ここに室内プール付の巨大なホテルでも建設する気か??
 
アメリカのモニュメントバレーがそうだった。
7年前はビジターセンターと、空き地をどうぞご自由にといった感じのキャンプ場だけだった。
そしてビュートと呼ばれる3つ並んだ岩に昇る神秘的な朝日を拝むためには、キャンプしかないのだ。
僕はキャンプ場で最も見晴らしのよい、少し突き出した崖にテントを張った。
だが、その日の夕方強烈なサンドストームにあい、
テントごと吹き飛ばされそうになったところを、たまたま居合わせたドイツ人家族に救われた。

あのときの風の恐ろしさは忘れられないし、
自転車を分解して清掃すると今でもたまにあのときの赤砂がフレームから出てくることがある。
そうして、牙を剥いた自然を身を持って体感したから、
それらをやり過ごす人の作った住居ってのはすごいもんだなぁと思った記憶がある。
そんなモニュメントバレーに一昨年訪れた際、
思い出のキャンプ場はその後建造されたホテルの下敷きになったいた。
今ではもうキャンプも出来ないそうだ。
モニュメントバレーに昇る朝日を見るためには一泊数百$の大枚を払って、
ガラス張りの客室から、風も感じることなく見るしかできなくなったのだ。
 
閑話休題。
 
パイネを巡った人は、ここにパタゴニア極まり!と息巻いて母国に帰るのだろうか。
限り無く本物に近い自然は、ここに来るまでの退屈な地平の向こうに存在するのに。
みんなここまでいっぺん自転車で来ればいいのにと思う。

パタゴニアを回った休み明け、会社の同僚たちにこう言うのかな。
 
「やぁ、休暇はどうだった?パタゴニアに行ったそうじゃないか」

『あぁ、そうさ。あそこは本当に素晴らしい場所だよ!まさしくラストフロンティアだ!!
険しい山々、美しい湖、青を蓄えた氷河…なんてったって、ガスコンロまであるのだから!!』


パイネにはもちろん、息を飲む圧倒的自然の宝庫です。
ただし、それらを取り囲む環境には疑問を抱かずにはいられません。
これがパイネはパタゴニアをテーマにしたテーマパークと思ってしまった理由です。
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