2013年5月29日水曜日

いつかいた世界

定刻より1時間遅れで飛行機は、滑走路を飛び立った。

体全体を抑える重力に軽い抵抗感を感じながら窓の外を見ると
サンパウロの街の広がりがどんどん小さくなっていった。

旋回をしながら高度を上げる飛行機は、やがてサンパウロ名物・夕刻の雷雲に飛び込んだ。
一瞬、窓の外が暗くなったが、すぐにさきほど以上の明るさを取り戻す。
雲の上には青空が広がっていた。

窓から外を眺めると、雲の切れ間からサンパウロ市街がまだ見えた。
ただ、随分と小さくなった。

ふと前の座席に付いているモニターに目をやると標高が2000mと表示されている。
雲の上まで飛行機はのぼったというのに、まだそんな程度なんて。

ボリビアからチリに抜けるとき、僕の自転車は最高地点4900mを記録した。
徒歩に限って言えば6000mを越える山にも登った。

いま僕の目の前に延々広がるのは僅か2000mの雲海。
機体はぐんぐんと高度を上げていく。

まだまだ。

まだまだ。

僕の知っているこの大陸の背中はもっと高いところにある。
まだまだこんなもんじゃない。
そう思いつつ、モニターに表示される高度と窓の外の雲海を交互に眺めた。

しばらく過ぎて、機体が安定圏に入ると、パンッと機械的な音が機内に響き
乗客がカチャカチャとシートベルトを外し出した。

この時、高度はモニターに表示されていなかったが、
この音を聞いて、僕の南米はようやくここで終わったのだと思った。
いや終わってしまったのだった。
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2013年5月28日火曜日

放り出された根無し草

イグアスからクリチバを経由し、南米屈指の大都市サンパウロへ。
サンパウロは好況を謳歌するブラジル経済の中心都市。
これまで訪れた都市の中でもトップクラスに都市インフラが整っていた。
ただ雨季のこの時期は、毎日凄まじい雷雨が落ちた。
聞くところによると、サンパウロは世界でも雷の死者が多い都市なんだそうだ。
停電になることもしばしばで、そうなると整えられたインフラも台無しになる。
この街で数日過ごし、次なる目的地モロッコへの準備を整えた。
南米の出口グアルーニョス空港にはフライトの5時間前に到着した。
空港バスの出ているヘプブリカ広場までのタクシーの手配や、
到着してからのチェックインや両替など色々とやることがあるし、
ましてや自転車を預けるので色々とトラブルが起きたら、ということで早めに宿を出たのだが、
それは杞憂だったようであっけないくらいにスムーズに事は運び、
今ボーディングゲートでこの記事を書いている。

ただ一点だけ失敗が。
余ったレアルをドルに替えておこうと思い、空港併設の両替所に行った。
手持ちのレアルは公式レートだと24$くらいになりそうだったけれど、
空港ではレートが悪いし20$くらいになればいいかと思ってお金を差し出した。
愛想の悪い男がカタカタキーボードを弾き、数分後にお札が2枚返ってきた。
10$札2枚で予想通りかと思ったら、15$しかなかった。。。

レシートをよく見ると手数料で一律8.5$も取っているようだった。
たかだか8$と言うなかれ。
両替失敗した時のショックって自分にとって計り知れないくらいデカイ。
以前もグアテマラやチリの国境でも両替で大幅に損をして、しばらく気持ちが萎えたこともあった。
こう言っては本末転倒かもしれないがお金のやり取りだけで、損するって何も生まれないし本当にがっくりだ。
あ、そういえばブラジル入国でも失敗したな。
もしかすると自分は相当両替ベタなのかもしれない。。。

さて話はそれたが、いよいよ僕は南米を出発し新しい大陸に渡る。
パタゴニアを走っている時、この大陸を去るときはきっと寂しい気持ちになるのだろうなぁ
と思っていたのだが案外、すっきりした気持ちでこの空港にいる。

確かに、ウシュアイアに到達してもうひと月以上経つし、
南米のエンドロールって言うには長いくらいの距離をパラグアイで走った。
気持ちを整理して整えるにはもう十分すぎる期間だった。
もう視線はモロッコの方をしっかり見据えている。

ただ、まだ次の終着点がはっきりしない。

僕にとってウシュアイアは特別な響きをもつ場所だった。
位置的にも日本から最も遠い場所にあり、
そこから次の場所へ行くだけでもバスや飛行機を乗り継いでいかないといけない。
もちろんお金だってかなりかかってくる。

そこへ至る道はアンデスの険しい山々や古代文明のロマン、美しく優しいパタゴニアの地平など
旅の魅力がこれでもかと詰め込まれた道だった。

その道を少しずつ紡いでいくうちに、何かの物語のような出逢いが劇的に訪れ、
僕の琴線を刺激した。

この大陸はほとんどの国がスペイン語を公用語としている。
言葉が通じない中でのコミュニケーションも、それはそれで面白いのだけれど
言葉が通じあって、意思疎通のある旅の方がもっと面白いと思う。
最初はちんぷんかんぷんだったスペイン語も少しづつ覚え
ちょっとした会話ぐらいは出来るようになった。
ブラジルに入って、この一年半使い続けたGraciasの言葉が抜けなくってつい使ってしまっていた。
最後の方になってやっとオブリガードと言えるようになってきたのに、もうこの国を離れなくてはいけない。

これからはこんなに広い範囲をカバーする言語を話す土地を旅行することはないだろう。
その土地の言葉や作法が少し身につき始めた頃に、
その国を離れなくてはならない寂しさがつきまとうようになると思う。

長くなったが、言語的なところでも中南米は旅がしやすいし、よりその土地を知れるチャンスを秘めている。

ウシュアイアを目指した自転車乗りもたくさんいた。
無事、目的地へ到達した者、
あるいは何らかのアクシデントで断念せざるを得なかった者それぞれにいると思う。
会ったことがある人はもちろん、ない人たちとも、
過去未来、場所や言語、国などあらゆる属性を超えて
僕らは『ウシュアイア』という言葉で結びついた。
きっとそれを感じてるのは僕だけではないはずだ。

街自体はツーリスティックで何の情緒もない場所だったけれど、
ウシュアイアという響きは何時まで経っても色褪せない。
ウシュアイアは今もこれからも世界の果てに相応しい場所だ。

これから訪れる土地にも果てとか先っちょと呼ばれる場所はたくさんある。
喜望峰もそうだし、ロカ岬や、ノールカップ、マレー半島の先(あれはなんて場所だ?)などなど。
でも、どうも今の自分にとってそれらは特別な意味を持たない。

ずいぶん長いこと南米に憧れていたからかな。

次のモロッコという土地にかなりワクワクしているし、
南米を走りきった手応えもようやく少しはあるのだけれど、
僕の気持ちを落ち着ける終着点が見つからず、ずいぶんと宙ぶらりんな気持ちなのだ。
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2013年5月26日日曜日

南米一の大国と3大瀑布

イグアス川を渡ると、そこはブラジルだった。
川の向こうのパラグアイとは僅か数百mの距離なので当然気候は変わらない。
けれども、なんとなく、しかし確実に空気は変わった。
建物も、人の顔立ちも、広告看板の文字も、街角の食堂から漂う煙の薫りも。
いろんな事象の少しの変化が重なって、この国の空気を形作っている。

南米最終国ブラジル入国。

変わりゆく空気感にウズウズと走り出したい気持ちが湧き立つものの、
サンパウロ発の飛行機はもう1週間後。
またいつか南米を訪ねる理由にするためにとっておくことにしよう。

この日は、かの世界3大瀑布で有名なイグアスの滝を見に。
アルゼンチン側で見たほうが迫力があっていいとのことだったけれど、そんな心配はなんのその。
ブラジル側も舞い散る飛沫と轟音が圧倒的な迫力だった。

以前アメリカ、カナダに流れるナイアガラの滝も見ている僕。
イグアスの滝を目の当たりにして、かつてのルーズベルト大統領夫人と同じ事をつぶやいてしまった。

『おぉ、かわいそうな私のナイアガラ』

ブラジル側もオススメです。
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2013年5月24日金曜日

シウダー・デル・エステにて

僕にとってラテンアメリカはいつの頃からか、憧れの土地だった。

アメリカ合衆国のエルパソに流れるリオグランデに掛かる橋を渡って以来、約一年半が過ぎた。
メキシコではテキーラに溺れ、毎夕セントロに出ては屋台から漂う肉々しいタコスの香りに誘われた。
南米に入ると、コロンビア人の思い掛けない親切心に驚かされた。
そしてなんといってもアンデス山脈を筆頭にした大自然。
走れば走るほどに、この大陸の屋台骨の優しさと厳しさを知り、
一日一日、心地良い疲れに充足感を得た。
ペルー・ボリビアの高地を走っていた頃は、まさに自転車乗り冥利に尽きる日々であった。
チレアンパタゴニアでは降り続く雨と晴れの日の森のコントラストに心躍る思いであったし、
アルゼンチンサイドに広がる荒野と僕をなぶる風の果てには思い掛けないエンディングが待っていた。

ラテンアメリカほど旅の魅力が詰まった場所はないと思う。
各地に古代文明のロマンが残され、中世以降の植民の歴史とがこの土地の二面性をもたらしているし、
皮肉なことだが、植民の過去があったからため言葉もほとんどの土地でスペイン語が通用する。
だから一日一日、その土地に溶けてゆく感覚を味わうことができるし、その土地で生きる者の生の声が聞ける。
メキシコのトルティージャ料理、ペルーの海鮮や米料理、そしてアルゼンチンのアサードを始めとして
食文化の移ろいも楽しいものだ。
食堂で、初めて見る食べ物を恐る恐る口にする僕に、集まる周囲の視線。
パクリと口に入れ、『ウマい』というと周りはワイワイ騒ぎ出し、「まぁ飲めや」とビールが注がれる。
打算なき彼らの行動には時々、うんざりさせられることもあったけれど
それ以上に彼らから発せられる得体のしれないエネルギーに僕も突き動かされた。

人・食・歴史・自然…
やっぱりラテンアメリカは旅のすべてが詰まっている。

そんな僕にとってこの土地の一番の記憶は、実はマチュピチュやウユニ塩湖といった風光明媚な観光地ではなく、かといってメキシコシティやクスコといって歴史のある都市でもない。

メキシコ以南に広がる中米だった。

時に40℃を越える炎天と湿度の中、文字通り汗を流して走ったあの頃。
先頭に僕が立ち、真ん中にサヌキくん、後ろにモトミくんと続き走った。
走り方も休憩の仕方もバラバラだし、正直言ってすべてがすべてうまく行ったわけではなかった。
けれど、それぞれに自然と役割分担がされ、なんだかんだうまくいっていたようにも思う。
南米以降も度々再会をして祝杯をあげたり、一緒に登山をしたりもしたが三人で走ったのは後にも先にもあの時だけ。
食う、寝る、遊ぶの輪郭がすべて鮮烈だったように思う。

中米を思わせる気候のパラグアイ。
イグアス日本人居住区を経由し、僕は東の都市シウダー・デル・エステに到着した。
ここはブラジル・アルゼンチン・パラグアイの三国国境になっていて
免税地区のこの都市はテレビからトイレットペーパーまであらゆるモノが手に入る。
ペソ、レアル、グアラニー、ドル、ユーロが入り混じり、人も物もごっちゃごちゃの混沌世界。

ここが僕のラテンアメリカ自転車旅の終着点。
久しぶりに見るカオスな都市に、これだよこれ!と心踊る。
サンサルバドルっぽいよな、そんなふうに思ったけれど、
それを分かってくれる仲間たちはもう旅を終えていることに気がついて、少しさみしい気持ちになった。

火照った体を潤すために露店でコーラを買った。
シュワシュワと喉で弾けたコーラは、なんだかいつもより随分と冷えている気がした。
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2013年5月17日金曜日

赤土の道を行く

小学校の夏休みの朝を想起させる、パラグアイの朝。
自転車に跨り、街を下りる坂道を駆け下りると、夜に冷やされた湿度が心地よく体を撫でた。
まもなくこの湿気も、不快なものに変わるだろう。
それまでに少しでも距離を稼がねば。
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早起きしての暑さ対策は、無我夢中で掛けた2011年のアメリカや
仲間とともに走った中米を思い起こさせ、どこか懐かしい。
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パラグアイは栄養豊かな赤土の土壌を持ち、砂の粒子が道路に流れ、道も赤く染まる。
道路沿いには青々とした森と大豆畑が広がる。

この辺りではマテ茶を飲む器であるボンビージャとマテ壺をよく見かける。
エンカルナシオンの街でもよく見かけたので、調べてみると発祥自体はどこか分かっていないものの
スペインによる植民が始まった15世紀以降パラグアイを中心として計画栽培が始まったそうだ。
DSC02514_Rマテ茶=アルゼンチンというものは、作り上げられたイメージだった(ゲバラが愛飲していたせいか?)
ジェルバという茶葉をマテ壺に持って、冷たい冷水を注ぐのが高温多湿のパラグアイ流の飲み方だ。
このスタイルはテレレと言うそうだ。
商店の軒先には、マテ茶セットと同じくらい、冷水筒もよく売られていて、
待ち行く人はみんなマイ水筒を片手に歩いている。

さてパラグアイの自転車走行。
自分の望んだこととは言え、やはり低地の高温地帯を走るのは大変だった。
加えて終わりなきアップダウンが延々と続いた。
路肩はあるにはあるのだが、本線よりも状態が悪く、
200mおきくらいに段差が設けられているのも悩みのタネだった。
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とはいえ、こんなところを走る自転車旅行者は珍しいようで、休憩時のガソリンスタンドでは
たくさんの人から質問攻めに会う。
自転車で走っているから、と特別ヒロイックな立場を求めているわけではないのだけれど、
僕の旅程を聞いて驚く人々とのコミュニケーションが純粋に楽しい。
そして“まぁ飲めや”と差し出されるマテ茶を回し飲みすると、僕らはあっという間に友達になれた。

物価が安くなったので、アイスやジュースを気兼ねなく買えるのもいい。
物価が安いという感覚は先進国と呼ばれる国の人間の横暴なのかもしれないけれど
蒸し暑い土地を汗水たらした後に飲むコーラの喉越しは何者にも勝る。

途中、往復20kmの寄り道をして、日本人移住区のピラポ地区へ。
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戦後の移住政策により、僕らのおじいさん世代の方々が開墾し切り開いていった土地で、
現在は1000人を越える日系社会がこの地域だけで存在するそうだ。
街に向かう一本道の左右には広大な大豆畑が広がり、途中に巨大なサイロが見える。
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この土地のほとんどが日本人が開墾し、所有しているそうだ。
パラグアイにおいて日本人の農業における貢献度は非常に高く、
日本人は尊敬の眼差しで見られるそうだ。
そういえば、パラグアイに入って僕への人当たりもどこか良くなったような気がする。
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日本通りと名付けられた街のメインストリートをひと通り散策したあと、昼食のためにレストランへ。
ところがレストランが見当たらず、街の人に場所を尋ねると看板のない建物を教えられた。
そこは確かにレストランで、メヌーデルディア(日替わり定食)しかないというので、それを頼むと
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日本の定食が出てきた。
料理はどれも手作りで、大量生産されたメーカー品の味に慣れきった僕の舌に懐かしい味を届けた。

その後、農協スーパーに少し寄った後、幹線復帰。
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道は相変わらずアップダウンが絶え間なく続き、目的の街につく頃にはへろへろだった。

街にはいくつかホテルがあったが、この田舎町にあってなぜかどこも満室で仕方なく、
唯一空きのあった25$ほどする街一番のホテルに泊まった。

宿の人間に許可を取り、ガレージで米を炊いた。
今日はどうしても米が食べたかった。
何故って?
それを聞きますか。
フッフッフッフッ…

目ン玉ひん剥いて、こいつを見やがれ!!
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コスタリカ以来、約1年ぶりの納豆。

美味。