2013年5月17日金曜日

赤土の道を行く

小学校の夏休みの朝を想起させる、パラグアイの朝。
自転車に跨り、街を下りる坂道を駆け下りると、夜に冷やされた湿度が心地よく体を撫でた。
まもなくこの湿気も、不快なものに変わるだろう。
それまでに少しでも距離を稼がねば。
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早起きしての暑さ対策は、無我夢中で掛けた2011年のアメリカや
仲間とともに走った中米を思い起こさせ、どこか懐かしい。
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パラグアイは栄養豊かな赤土の土壌を持ち、砂の粒子が道路に流れ、道も赤く染まる。
道路沿いには青々とした森と大豆畑が広がる。

この辺りではマテ茶を飲む器であるボンビージャとマテ壺をよく見かける。
エンカルナシオンの街でもよく見かけたので、調べてみると発祥自体はどこか分かっていないものの
スペインによる植民が始まった15世紀以降パラグアイを中心として計画栽培が始まったそうだ。
DSC02514_Rマテ茶=アルゼンチンというものは、作り上げられたイメージだった(ゲバラが愛飲していたせいか?)
ジェルバという茶葉をマテ壺に持って、冷たい冷水を注ぐのが高温多湿のパラグアイ流の飲み方だ。
このスタイルはテレレと言うそうだ。
商店の軒先には、マテ茶セットと同じくらい、冷水筒もよく売られていて、
待ち行く人はみんなマイ水筒を片手に歩いている。

さてパラグアイの自転車走行。
自分の望んだこととは言え、やはり低地の高温地帯を走るのは大変だった。
加えて終わりなきアップダウンが延々と続いた。
路肩はあるにはあるのだが、本線よりも状態が悪く、
200mおきくらいに段差が設けられているのも悩みのタネだった。
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とはいえ、こんなところを走る自転車旅行者は珍しいようで、休憩時のガソリンスタンドでは
たくさんの人から質問攻めに会う。
自転車で走っているから、と特別ヒロイックな立場を求めているわけではないのだけれど、
僕の旅程を聞いて驚く人々とのコミュニケーションが純粋に楽しい。
そして“まぁ飲めや”と差し出されるマテ茶を回し飲みすると、僕らはあっという間に友達になれた。

物価が安くなったので、アイスやジュースを気兼ねなく買えるのもいい。
物価が安いという感覚は先進国と呼ばれる国の人間の横暴なのかもしれないけれど
蒸し暑い土地を汗水たらした後に飲むコーラの喉越しは何者にも勝る。

途中、往復20kmの寄り道をして、日本人移住区のピラポ地区へ。
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戦後の移住政策により、僕らのおじいさん世代の方々が開墾し切り開いていった土地で、
現在は1000人を越える日系社会がこの地域だけで存在するそうだ。
街に向かう一本道の左右には広大な大豆畑が広がり、途中に巨大なサイロが見える。
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この土地のほとんどが日本人が開墾し、所有しているそうだ。
パラグアイにおいて日本人の農業における貢献度は非常に高く、
日本人は尊敬の眼差しで見られるそうだ。
そういえば、パラグアイに入って僕への人当たりもどこか良くなったような気がする。
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日本通りと名付けられた街のメインストリートをひと通り散策したあと、昼食のためにレストランへ。
ところがレストランが見当たらず、街の人に場所を尋ねると看板のない建物を教えられた。
そこは確かにレストランで、メヌーデルディア(日替わり定食)しかないというので、それを頼むと
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日本の定食が出てきた。
料理はどれも手作りで、大量生産されたメーカー品の味に慣れきった僕の舌に懐かしい味を届けた。

その後、農協スーパーに少し寄った後、幹線復帰。
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道は相変わらずアップダウンが絶え間なく続き、目的の街につく頃にはへろへろだった。

街にはいくつかホテルがあったが、この田舎町にあってなぜかどこも満室で仕方なく、
唯一空きのあった25$ほどする街一番のホテルに泊まった。

宿の人間に許可を取り、ガレージで米を炊いた。
今日はどうしても米が食べたかった。
何故って?
それを聞きますか。
フッフッフッフッ…

目ン玉ひん剥いて、こいつを見やがれ!!
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コスタリカ以来、約1年ぶりの納豆。

美味。

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